感想宣言?

 500文字の心臓第4回トーナメント用の超短編を書いてます。去年はぜんぜんだめで、なにがだめかって大差で負けたとかそういうことでなく、自分自身が納得のいくような作品を提出できなかったことで、ずっとしこりというか、悔いが残っていたのですが、今回はなんとかそういう事態は避けれそう。本当に自分が面白いと思えるものならば、たとえ負けたとしても結局は満足できるのです。もう少し推敲してから送る予定。


 昨日のオフ会でもお会いした秋山真琴さんからオンライン文芸マガジン「回廊」の感想執筆依頼が来ました。僕と1歳しか違わない秋山さんの行動力、情熱、バイタリティには恐れ入ります。まだほとんど読んでないし、正直読むかどうかもわからないのですが(すいません)、サイトにも載っている感想宣言を読んで思ったことを少し。

 この感想宣言、同意はするのですが、“誰が”宣言しているのか、いまいち見えてきません。もちろん直接的には秋山さんなのですが、この宣言を「回廊」参加者全員が納得しているのか、それがどうもわからないのです。一歩間違うと、秋山さんの個人的な宣言のようにとられかねない気がします。

 感想、あるいは批評を、どこまで書いていいのかという問題はオンライン小説サイトには付きまとうものらしく、千文字世界でも紛糾していました。僕個人としてはどんな批評でも、罵倒でない限りは(おそらく)許せるのですが、千文字世界を見る限り全員がそうというわけではなさそうです。「回廊」の感想宣言には『遠慮は無用だ。どんなに酷評であっても甘んじて受け止めよう。その言葉は、必ずや作者たちの糧になるのだから。』とあります。僕はこの意見には全面的に賛成ですが、あくまでも〝僕は”であって、作者も読者も全員がこういった考えを持っているとは考えにくい。それは千文字世界アンケートの『感想耐性主張バナーは必要だと思いますか?』と言う質問に対して『あったほうが良い』が大多数を占めることからもわかります。少なくとも一部の作者は酷評を望んではいない。もしくは酷評を望んでいない作者がいないとは言い切れない。

 対して、「回廊」への参加にあたって審査等はないといいます。そうすると、今までの参加者の中に、酷評に対してショックを受けてしまう人もいるのではないかという不安は残ります。そういう人がショックのあまり執筆しなくなってしまうような事態はおそらく誰も望んではいないでしょう。ですから、雑誌のために酷評は必要、と言う考え方を第一とするなら、今後、参加希望者には、酷評を受け入れることのできる人、という条件をつける必要があるのではないでしょうか。もしくは千文字世界のように感想耐性主張バナーのようなものを使うとか(個人的にはあまり良い方法とは思いませんが)。

 とりあえずのところ、感想宣言がいままでの「回廊」参加者全員の総意であるかどうか、そうでないならば、賛同している参加者(すなわち酷評を受け入れていただける方)はどなたなのか、そこを明記していただきたく思います。そうでないと結局読者は、少なくとも僕は、安心して酷評することはできない気がします。

 少しでも感想が欲しい! という叫びは、500文字の心臓を発見するまでほとんど感想を貰えなかった僕も本当によくわかりますので、「回廊」を読んだ暁には、できる限り感想は書きたいと思います。


 疲れた……。主に精神的に疲れた。意見表明なんて僕の柄じゃないので(笑)。なんか不備があったら後でこっそり修正したりとか、するかも。

 とんでもなく的外れなことわめいてそうで恐ろしい……。批判は甘んじて受けます。胃が痛くなりそうですが(笑)。