東浩紀+桜坂洋「キャラクターズ」

キャラクターズ

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 今更読んだ。いや、雑誌掲載時から注目はしてたのだけれど。桜坂の久々の新作がまさかの「新潮」掲載というだけで読む価値がある(「All you need is kill」は驚くべき傑作)。しかも東浩紀との共作である。
 それで、今更になって掲載雑誌を図書館で借りてきて(だから単行本修正部分はわかりません)、読んで、読み終わって、終わった直後はちょっと判断が出来なかった。でもずっと頭の中に居座り続けて、ネットで情報調べたりしながらぼうっとしてると何だか泣きそうになってきた。というか今泣きそう。
 作者の本当の魂が込められた作品はそれだけで傑作だと断定する傾向が僕にはあるが(だから映画のキャシャーンとかも個人的には傑作)、この作品にも魂があった。ただ魂をそのまんま目の前にぽんと出しても純文学界は無視するのが作者達には(おそらく、痛いほど)わかっているから、固有人名をばんばんだしたり結末をあんな風にしたりしてセンセーショナルにふるまっている。けれどもその中心にあるものは単純にして明快だと思う。つまり、「なんでおまえらライトノベル無視するんだよ」と。
 最初の最初に佐藤友哉の批判から始まって、僕は「ん?」と思った。偶然にも「1000の小説とバックベアード」を数日前に読み返していて、初読時より面白かったし傑作だと感じたから、余計にそう思った。でも読み進めていくと真意がわかる。いわゆる「ライトノベル作家が純文学で評価される」最近の風潮を、「キャラクター小説(≒ライトノベル)の私小説化」であると作者達は言う。それは、逆に言えば、私小説化しなけれライトノベルは文壇で認められないということだ。すなわち文壇はライトノベルそのものを全くの異物として排除している。全く認めていない。それが作者達には絶望とうつる。確かに、それはまぎれもない絶望だ。
 キャラクター小説がその中核として持っている武器は、実は昔からずっと小説の中で蠢いていたものだ。キャラクター小説がそれを露骨に抜き出して書かれていて、そしてウケているという現状は、だから新たな文学の表出の一つと見なせるはず。なのに純文学はそれを認めない。狭い幻想に閉じこもって鎖国し外を寄せ付けない。そんな幻想は嘘でしかないんだと言いたいのが東浩紀で、その事実が悲しくてしかたないのが桜坂洋だろう。桜坂は小説が大好きだから、今まで自分が読んできて、そして書いている「ライトノベル」が、小説ではないと言われるのが本当に堪らないのだろう。あれ、何か書いててまた泣きそうになってきた。だって僕もそうだもの。ライトノベルあまり読まないけど、本当に大好きな作品はいくつもあるし、僕の中でそれらは大好きな村上春樹と特に区別がないのだから。
 まあいいや。とにかく僕はそう読んだ。本当に衝撃的である意味つらい読後感ではあるけれど、この感覚は忘れたくない。